「近江絹糸」の思い出


近江絹糸OB会会場      近江絹糸構内

1,敗戦直後の集団就職

 六月の若葉の頃になると思い出します。なにしろ若かったので忘れたけど、思い出すままにかいておこうと思っています。 三重県津市で過ごした青春時代の事を。

 昭和28年の戦後すぐの事でした。中学を卒業と同時に、近江絹糸津工場に中学校から集団就職しました。当時は進学する人はほんの一握りで殆どの人が就職していました。当時は皆貧しく、よほどの金持ちで勉強が良くできないと進学など出来ませんでした。
 田舎の純朴な娘だった私にも、15歳の春がやって来ました。何の疑問も持たずに言われるがままに集団就職に応募しました。
 長崎駅から両親に見送られ、生まれて初めて親元を離れ、一人で暮らす不安なと期待を胸に旅立ちました。集団就職で赴いた先は、後に「戦後の労働争議の歴史」に残る事となる、「近江絹糸・三重工場」でした。
 生まれ育った長崎は、当時とすれば結構都会で、私の実家があった所も昔から賑やかな歓楽街でした。だが、工場や工場の近くにある寮は、ただ広い平地に田圃や畑が立ち並び、そのなかに巨大な工場の塀と、古くさい寮がぽつんと立っているだけでした。春と言うのに寒いような印象が残って居ます。

 仕事は、二交代制になっていました。工場は絹や綿を造る工場でした。同じ身の上の若い工員さんとか女工さんが大勢努めていました。寮住まいの人が大勢いたし、仲間もできてみんなで和気藹々と過ごしていました。それでも、純情で無知なわたしは仕事だと思いやり遂げていたように思いました。

 でも、楽しい事ばかりではありませんでした。
 工場の油のにおいと、仕事が終わってから、なぜだか大広間にある仏壇のまえでのお経を唱えなくてはいけません。無知な娘には殆ど理解できませんでしたが、お説法どれくらいの時間か忘れるくらい続き、正座で足のしびれだけが、心に残っています。

近江絹糸争議の経緯 近江絹糸の人権争議の記録:誰か昭和を想わざる・絹と明察

2,労働運動との出会い、社会との出会い

 そのときに生涯忘れ得ない体験をしました。「近江撚糸・労働争議」です。

 入社して、1年2ヶ月後の、昭和29年の6月12日の事だと記憶しております。彦根で始まった「人権争議」が津の工場にも飛び火してきました。寮長や会社の人が、「ゼンセン同盟が今日やってくる。全員押入に隠れろ。外に出るな。」  と言われました。会社も休みになり、みんな、訳が分からないまま、当時冷房すら無い、じめじめとした押入のなかに本当に隠れていました。
 隠れていると、遠くから、大勢の叫ぶ声が聞こえてきました。なにやら演説する声、労働歌を歌う声、「わっしょい!わっしょい!」と地鳴りの様な、お祭りのような、大地に響きわたる、大勢の労働者の群れが発する声が迫ってきます。
「いったい何事がはじまったの?」とキョトンとしていました。

 次の日になると、朝から寮とさほど離れていない工場は「騒然とした雰囲気」という言葉がぴったりの状況でした。
 二交代で朝4時頃早く出かけたました。田舎の静寂の中にあった工場の周りが、日が昇るにつれて騒然としてきました。いつしか工場の周りにはたくさんの労働者(ゼンセン同盟、ほかの組合の方々、津工場のなかからも参加する方々もたくさんいました。)渦が出来ていました。アジ演説をするもの、隊列を組んでデモ行進をする者、人いきれと熱気が渦を巻いてます。
 何が起きて居るのかも理解出来ず、労働運動の存在すら知らず、訳も分からすに怯えていました。

 工場の周りは会社側が塀の外の労働者が会社構内への進入を防ぐ為に門を閉め切り、外に出ることさえままなりません。その日は寮に帰りましたが、6月16日、労働者達の余りの熱心なオルグに乗せられる様な感じで、私も「塀の外」に飛び出し、組合運動の渦の中に身を投じました。
 今の人には想像が難しいでしょうが、その日から工場に行ける筈もなく、労働運動の日々になりました。すでに会社側からすれば「裏切り者」であった私達は寮に帰る事も出来ず、全国の労働者の皆さんからのカンパで旅館住まいでいした。
 毎日の様に、労働組合の勉強会。デモ行進、スクラムをくんでワッショイ、ワッショイとジグザグに工場内でデモ行進で気勢をあげる。お祭りの様でしたが真剣そのものでした。まだ組合運動に参加してない「同士」をオルグしたりしました。なにか不思議な熱情に乗せられていたのかもしれません。良く記憶は定かにありませんが、結局組み合いが寮も占拠したと記憶しております。
 団体交渉の場も外からですが覗いた事もあります。娘の私には、ちょっと怖いと思いました。現在考えると、組合員の為に先頭に立って戦う男の人たちを頼もしく思い起こされます。これも組合と組合員の団結の力があればこそと思います。運動が収束に至った経緯は記憶に定かでは有りませんが、良き青春の思い出として私の生涯の記憶の中に残っております。

 秋になって工場は再開されましたが、団体交渉は断続的に続いて居たように記憶しております。

3,青春の日々と仲間達

 工場では部活動も盛んでした。コーラス部に私は所属しておりました。練習も楽しかったし、よその工場にも何度も歌いに行ってましたが「近江絹糸のコーラス部」というだけで拍手をもらってました。現在の音楽好きもこの頃からの続いています。
 キャンプも当時は盛んでした。組合の方々や、会社の同僚の皆さんと、鈴鹿山系の山々に沢登りに行った事も強い印象が残って居ます。緑の山々が目に焼き付いて居ます。急峻な谷や沢を踏破していきます。たくましい男の方々が、渓流の中に肩までつかり私たち女性陣の足場になって肩を貸してくれて、男の人の頼もしさ逞しさを生まれて初めて実感し、感動した記憶が残って居ます。

当時のコーラス部部員達
当時のコーラス部部員達

 組合の勉強会でちょっとした事件が起きました。冬場に組み合いの勉強会がありました。50人くらいの労働者が大部屋一杯に集まりました。寒さをしのぐ為に部屋で七輪で炭を炊いていました。そこで私は気分が悪くなってきました。一酸化炭素中毒です。そして会合も終わり食堂による予定でしたが、気分が悪くなり直接寮に帰りました。その晩布団のなかでふるえていました。翌日、全員が体調を崩している事が判明し大騒ぎになりました。組合の男の方とか、組合の方とか心配してお見舞いに来てくれまして本当に心に残って居ます。

当時の著者1
私は誰でしょう。
当時の著者2
おめかし。(э。э)bうふっ

 集団赤痢が発生した事もあります。8月頃の暑い時でした。突然、「下痢、発熱、嘔吐」を訴えました。寮全体が消毒され、出入りは制限されました。出入りの時は消石灰で靴を消毒されました。そこら中消毒されました。発症したひとはもとより、保菌者までもが隔離されました。不幸中の幸いで、私は感染しませんでいしたが、とても大変だったと記憶しております。

 結局、4年くらい勤め退職しました。  その楽しき日々も、田舎の家業が忙しくなり帰郷しました。4年の歳月を私の青春の思い出として過ごさせてもらいました。今おもうと、とても愛おしい日々だったと思います。

4,そして、再開へ

 23歳で結婚して44年のも年月が流れてしまいました。子育と仕事てが終わり、海外旅行にも行けるようになりました。しかし、押入の奥にしまわれたお人形さんの様に、心の片隅に残って残っていたいたのは、他ならず津における青春の日々でした。たまに思い出しては、三重県津市を訪れたいと思っていました。
 寮で仲の良く、今でも親好が続いている同僚がいます。帰郷する前に、「元気なら年賀状だけでも書きましょう。」との約束をしました。年賀の交換は40年余の年月を得てまだ続いています。

 長い歴史を積み重ねた「近江絹糸」も近々その幕を閉じて工場が閉鎖になりました。そこで、工場が取り壊される前に、これまでの従業員が一同に会し「OB会」か会社を挙げて行われるとの事の連絡を頂きました。そこで、
 2005年2月12日に、念願の津に行きました。当時の面影はあの長い塀を残すのみでした。50年の歳月の長さ、重さを感じました。500人をも大勢のOB達が集いました。遠くは北海道沖縄まで、私のような年寄りから若い人まで一同に集い親交を深めました。
 記憶が薄れている事もあり、懐かしい顔と出会う事は有りませんでしたが、当時の事がぽつりぽつりとよみがえって来ました。友人と同士達と近江絹糸で昭和29年6月ゼンセン同盟の旗のもとで、人権争議を戦った事を。

 私の人生の中で人一倍がんばってこれたのも、また家や社会に流される事無く筋を通す術を得たのも、この時の経験が生きていたものだと考えております。
 私事ではありますが、子育ての後に勤めた会社を定年退職して、4年間、若者に混じり定時制高校に通いました。そのとき、外の世界を知り、ただの「日本の良き妻良き母」だけで収まらずに、学問をしたいと考える機会と知恵を与えてくれたのも、当時の労働運動でした。

ゼンセン同盟、カネボウ、倉敷の組合、紡績関係の組合、大垣の工場、彦根の同士達の皆様、闘争を勝ち得たのも、あなた方の支えのおかげでございます。時は遙かに超えてしまいましたが、心より感謝いたしております。ありがとうございました。そして時代は社会や労働者にとっても厳しい方向に進んでおりますが、今後のご健闘をお祈りしております。


−リンク−

UIゼンセン同盟

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